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江戸時代は酒々井町と称し、本佐倉町とともに佐倉の城下町であった佐倉六町の一つでした。
酒々井宿は徳川家康の関東入りに伴い、千葉氏の城下町を宿場町として再編した町が始まりです。
宿場町は江戸に近い西側から上宿・中宿・下宿と横町に分かれていました。
酒々井宿には宿継ぎの人馬や駕籠などを揃えていたほか、出張の役人や旅人などを泊める宿屋があり、小見川藩などの参勤交代にも使われていました。
何百人も泊められるような大きな宿場ではありませんでしたが甚内・阿波屋・佐野屋・笹屋・大国屋・中屋・米屋などの宿屋の名が語り継がれています。酒々井宿一里塚の様子 -『古今佐倉真佐子』より抜粋-
「塚には芝が植えてあり、榎の木が植わっている、佐倉新町の高札場から一里(約4キロメートル)にある。」酒々井町の街並み -江戸後期 『東光寺文書』より抜粋-
上町 - よし田屋、干物屋、そばや
仲町 - 槌(辻)屋、芳野屋、山屋(やまや)両家(りょうけ)、豆ふ屋、入(いり)
下町 - 津田屋半兵衛、さの屋勘右衛門宇八、ときわ屋、小松川、しがらき
横町 - ひたち屋平太郎宿屋(やどや)のこと -寛政十1798年 『成田の道の記』より抜粋-
「本佐倉を過ぎ酒々井宿に出ます、宿の中ほど左には「辻屋」という泊りができ、昼は飲食もできる店があります。(略)左に麻賀多明神の宮森の茂みあり、この向かい側の右の「かしわ屋八衛門殿」といへる百姓あり。去年に友人と一緒に泊まった(略)」
記録と言い伝えでは佐野屋、米屋、大国屋、笹屋、中屋、阿波屋、槌屋、甚内、岩城屋、柏屋という宿屋が宿の中にありました。
このほか宿ではありませんが小見川藩、多古藩、高岡藩の参勤交代の宿所・休息所として本陣があったといいます。佐倉藩主からの差し入れ -『佐倉藩年寄部屋日記』より抜粋-
天保五1834年十一月に小見川藩主が参勤交代のため酒々井宿に宿泊した時に佐倉藩からの差し入れが宿所まで届けられました。中身はお菓子七種、煮しめ七種の御馳走でした。水戸光圀と酒々井宿 -『甲寅紀行』延宝2(1674)年より抜粋-
水戸藩主水戸光国が祖母と継母の三十三回忌供養のため水戸から鎌倉に出かけたときの日記に酒々井宿で一泊した時の見聞が書かれています。
お供は助さん、格さんではなく元さん(吉弘元常(よしひろもとつね)と友さん河合恒久(かわいつねひさ)でしたしがらき茶屋 -『遊歴雑記』より抜粋-
「酒々井宿のはずれの東に“しがらき”という茶店がある、成田海道で茶屋といえば“しがらき”に限るといえよう。」
文化・文政期のころ、江戸に住む隠居僧で食通の十方庵大浄敬順は携帯コンロと煎茶道具を携え、江戸内外の名所旧跡を訪ね歩き、その見聞を記し残しました。
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江戸時代は本佐倉町と称し酒々井町とともに佐倉六町の一つで、佐倉藩の城下町でした。
本佐倉宿は千葉氏時代の城下町であり徳川家康の五男や土井利勝が藩主となった佐倉藩発祥の地です。
本佐倉町の範囲は成田道沿いで、南北に上宿と中宿、東側に千葉道を挟む形で南北の外宿に町割りがなされていました。
常盤屋、油屋、根本屋、大坂屋、角屋、鍛冶屋、紺屋、美濃屋などの商家の名前が語り継がれています。