-
享保年間に、天領代官小宮山杢之進が植樹したと伝わる 「伊篠の松並木」
成田、佐原を経て小見川へ向かう街道で小見川藩と高岡藩の参勤交代路です。
小見川藩では文禄3(1594)年に初代藩主である松平家忠から土井利勝、安藤信重らが江戸への出府の街道として使用し、寛永16(1639)年以降は小見川藩主の内田氏が半年ごとの参勤交代に使用し、酒々井宿を経由して江戸との往来をしていました。
また江戸後期には成田不動、滑川観音などの参詣路として使用されていた道でもあり、かつては約800mにわたり松並木も存在していました。現在でも多くの道標や成田不動への寄進碑が残ります。
成田道、小見川道のほか滑川道とも呼ばれていました。
-
佐倉七牧の内野牧(富里市南部)を横切り多古、大寺(匝瑳市)を経て銚子へ向かう古くからの街道で多古藩の参勤交代路でもありました。戦国時代の終わり、この道は江戸の徳川家康に献上する東庄町のミカンを輸送する街道でもありました。正徳3(1713)年以降は多胡藩主の松平(久松)氏が半年ごとの参勤交代に酒々井宿を経由して江戸との往来をしていました。
また旭市には安中藩板倉家の太田陣屋があり江戸藩邸との往来に、この街道を使用していたと考えられます。
-
柳沢牧(八街市北部)を横切り高松(冨里市)、芝山を経て八日市場へ向かう街道です。
八日市場は江戸時代中期から、「八日市場木綿」など東下総の特産品集積地として栄えた商業地であり、多くの物資の運送などに使用した道です。
また江戸後期には芝山仁王尊への参詣路として使用されました。
- 高崎川沿いに八日市場に向かう街道です。村と村を結ぶ道で、最上流の「実の口(冨里市)」が分水嶺となり、東の作田川支流沿いに芝山を経て八日市場に至ります。柳沢牧内に造られた直線道路が整備される以前の旧道と考えられます。
- 柳沢牧を横切り、芝山を経て八日市場へ向かう街道の脇道です。高崎川中流の村々(新橋・立沢方面)から柳沢牧の八日市場道に接続します。土地区画整理事業のため消滅しました。
- 上岩橋の卜ヶ崎から大鷲神社地先を柏木・下岩橋を経て義民木内惣五郎を祀る宗吾霊堂に向かう道です。水田沿いの道であり地蔵尊や双体道祖神が宗吾霊堂まで導いてくれます。現在の県道酒々井宗吾線や京成成田線宗吾参道駅から宗吾霊堂へ向かう道を指す場合もあります。
- 上岩橋の卜ヶ崎から大鷲神社地先を左に折れ、柏木河岸を経て公津下方や甚兵衛渡しに向かう道です。戦国時代、沼沿いに本佐倉城と公津城を結ぶ道でした。
- 多古道/銚子道の酒々井町内での呼び方です。酒々井宿から下台村、墨村を抜け内野牧の入口である古沢村の野馬木戸までを呼んでいました。
-
中川から沼沿いに新堀河岸、大佐倉・浜宿を経て岩名仁王尊のある岩名村に向かう道です。中川にある太田蜀山人の揮毫した道標には「仁おう道」と書かれています。
現在では京成軌道沿いの直線道路となっています。
-
佐倉道とは江戸と佐倉藩城下をむすぶ道を指しますが、江戸時代後期に成田詣が盛んになるにつれて佐倉道を成田道と呼ぶようになりました。
酒々井宿は佐倉城下町の一つですが、酒々井宿から佐倉城・江戸へ向かう道という意味で佐倉道が使われています。
-
酒々井宿と佐倉城を結ぶ戦国時代からの古い道で、大雨による交通止めなどを考え台地の上を迂回した道でした。
また酒々井宿から先は東金道とも言い、東金から小間子牧(八街市南部)を経て佐倉城下や浜宿港を結ぶ往還道でもありました。
-
千葉道は佐倉城下と佐倉藩の港である寒川港(千葉市)を結ぶ道ですが、その始まりは古く佐倉、成田を経て常陸に向かう古東海道に遡ります。
佐倉藩領の年貢米、佐倉炭、佐倉茶はこの道を通り寒川港から江戸に運ばれ、江戸からも産物が陸揚げされ佐倉藩領にもたらされました。水戸黄門も、この道を通り酒々井宿から千葉に向かっています。
-
酒々井宿など佐倉城下や浜宿港と東金、成東を結ぶ道で、小間子牧(八街市南部)を経て東金に至る往還道です。
現在、東の千葉県道76号成東酒々井線の旧道です。