-
江戸時代後期から明治時代まで河岸が設けられ、沼を利用して利根川筋から材木、竹、炭などの荷物の輸送を高瀬船で行っていました。船の輸送は柏木村にとって大きな産業で名主も務めた相京久右衛門が回漕店を営んでいたと記録にあります。
明治24(1891)年の記録では家数31戸で船25隻と船の所有率が高く、沼との関わりが密接だったことが分かります。
-
成田図書館所蔵 『成田土産名所尽』より
京成酒々井駅の北側に、印旛沼の対岸にある平賀(印西市)や臼井(佐倉市)、神崎(八千代市)などに向かう渡船場がありました。
改良前の沼は、水辺が京成電鉄の50~60mの所まで来ており、平賀への渡しは昭和40年まで活躍していました。
右は三代目広重画、「中川の景」。
-
酒々井地区の新堀にあった河岸(港)で天正19(1691)年に徳川家康の命により新しく造られた河岸であることから「新堀河岸」と呼ばれました。
しかし街道から遠く、荷さばきの土地がないなど立地が良くなかったこともあり、ほどなく使われなくなったと考えられています。
-
写真所蔵:川島俊彦氏
現在の佐倉市大佐倉にあった戦国時代からの港で本佐倉城の玄関口だった港です。
江戸初期に新堀河岸に機能を譲りましたが、ほどなく元に戻り、明治の頃まで江戸などとの間で物資の輸送が行われていまいた。
印旛沼は淡水漁業も盛んで、ウナギ、フナ等が水揚げされました。写真は昭和31年に浜宿港で撮影されたものです。