酒々井区の下宿の周辺、内方[うちかた]と東台[ひがしだい]は戦国時代に本佐倉城の侍屋敷[さむらいやしき]と伝わっています。
江戸時代の終わり、安政[あんせい]五(1858)年に出版された『成田参詣記[なりたさんけいき] 巻四』には、酒々井小学校のある内方には肥前[ひぜん]ヤシキと右京[うきょう]ヤシキがあり、道路を挟んだ南の東台は侍ヤシキと書かれています。昔の絵図には肥前ヤシキには白幡[しらはた]神社、右京ヤシキには妙見[みょうけん]神社が描かれ、記録では東台には不動堂[ふどうどう]がありました。また酒々井の旧家には、戦国の頃に内方の屋敷に住んでいたとの記録が残されています。さらに内方に東城寺、円福院があります。
これらによれば、本佐倉城に近い内方と東台は伝承のとおり戦国時代に侍屋敷が並んでいた場所で、内方には肥前や右京の名が残るほど大きな屋敷があり、身分の高い武士が住んでいたと思われます。
このほか酒々井区には大台山[おおだいやま]の侍屋敷があり、上本佐倉にも侍屋敷がありました。
これらの屋敷にも身分の高い武士や佐倉御旗本[おはたもと]と呼ばれた千葉氏直属の家臣が住んでいたのでしょう。
『成田参詣記 巻四』 千葉氏故城址ノ図
部分
中央の麻賀多神社が、現在の酒々井小学校付近。