酒々井町字横町にあり佐倉五ヶ寺の一つです。宗派は真言宗で長谷寺[はせでら]末。本尊は胎蔵界大日如来[たいぞうかいだいにちにょらい]、阿弥陀如来[あみだにょらい]です。康元[こうげん]二(1257)年三月二十七日に智恩院[ちおんいん]の俊誉[しゅんよ]僧正が開いたといいます。本堂の間口奥行ともに六間半、境内九百三十八坪あり檀徒[だんと]が二百九十一人います。境内には仏堂が三棟あります。
『印旛郡誌』 大正二(1913)年現代語訳
東光寺
東光寺は「大廣山[だいこうざん] 密蔵院[みつぞういん] 東光寺」といい、酒々井横町と下台の境にあります。
寺伝では東光寺は鎌倉時代、康元二年で京都の醍醐寺[だいごじ]智恩院の俊誉上人が開いたとされています。この頃の印東荘[いんとうのしょう]と呼ばれていたこの地の領主は宝治[ほうじ]の合戦で没落した鎌倉幕府の重臣千葉秀胤[ちばひでたね]から下総守護[しもうさしゅご]千葉頼胤[よりたね]に替わっており、建長[けんちょう]八(1256)年に頼胤は一族が領主となった松戸に真言宗大日[だいにち]寺(松戸市馬橋、のちに千葉市に移転)を創建していますので、頼胤が創建に関与していたと考えられます。
創建からの歴史は明らかではありませんが、寺の紋は千葉氏の九曜紋[くようもん]を使用していることから、代々の千葉氏の保護を受けていた寺であったのでしょう。
東光寺には高崎[たかさき]川沿いの佐倉、成田、富里、八街などに末寺十九ヶ寺がある大きな寺で僧侶の養成所(常法談林所[じょうほうだんりんじょ])でもありました。
東光寺は元禄[げんろく]二(1689)年に火災に遭い、本堂や古文書[こもんじょ]など焼失してしまいました。現在の本堂はこれ以後に再建された建物とされていますが、酒々井町が誇る古建築です。
佐倉五ヶ寺
大佐倉村宝珠[ほうじゅ]院、酒々井町東光寺、下岩橋村大仏頂[だいぶっちょう]寺、本佐倉村文殊[もんじゅ]寺、本佐倉村吉祥[きっちょう]寺の真言宗寺院をいいます。
『佐倉藩年寄部屋日記』には、
寛延[かんえん]二(1749)年一月七日、今朝、御本丸[ごほんまる]に於いて大般若供養[だいはんにゃくよう]が執り行われたので、前例の通り謝礼を払うよう命じました。僧侶も前例の通りの出席でした。
導師[どうし]は酒々井町東光寺、大佐倉村宝珠院、下岩橋村大仏頂寺、本佐倉村文殊寺、本佐倉村吉祥寺このほか十ヶ寺が決められた通り来ていました。
「酒々井町東光寺文書(明和三(1766)年)」には、
佐倉五ヶ寺とは佐倉城の祈祷所[きとうじょ]で代々の城主が祈祷をするよう命ぜられ正月、五月、九月に五ヶ寺が城に行って当番の寺が導師を勤めます。
とあります。
佐倉藩では毎年正月、五月、九月に大般若供養が行われ、前例のとおり五ヶ寺が交代で導師を勤めていました。
これらの寺はいずれも千葉氏由縁の寺であり戦国時代から千葉氏の祈祷所であったと考えられ、東光寺を含め江戸時代を通じて佐倉藩領の真言宗の有力寺院でした。
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東光寺
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大仏頂寺
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文殊寺跡
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吉祥寺
- 五ヶ寺の内、四寺は酒々井町です。