「酒々井風土記 -酒々井宿物語-」のタイトル

10 祗園祭礼のこと
宿の祭礼

「11 鎮守八幡神社祭礼のこと」のタイトル

12 麻賀多神社の祭り
のこと村祭り

八月十二日、大佐倉の八幡神社を発向した神輿は、本佐倉城大手の坂(清光寺の先)まで来ると酒々井町及び本佐倉町両区の「世話人」が提灯を持って八幡様の神輿をお迎えに行く、その他の人は意匠[いしょう]を凝らした祭支度[まつりしたく]で出迎える。

大佐倉の氏子は白丁[はくちょう]を着て「大八幡だい。去年のままだい。」と神輿を揉みつつ本佐倉町より県道に沿いて酒々井町の上宿・仲宿に到り、八坂神社のお仮屋に納める。一泊したのち同じ道順で還御[かんぎょ]する。酒々井町では競馬とその余興として馬鹿乗り[ばかのり](仮装行列)が行われる。

競馬(くらべうま)

千葉氏時代から開催され、徳川家康も許可したという日本三競馬の一つと称さる。酒々井仲宿の八幡宮お仮屋前(八坂神社)から高札場(役場入り口)までの二丁(約200m)の通りの中央に青竹で矢来[やらい](垣根)を結い、矢来の左右が馬場となる。

まず子供が色々な母衣懸(ほろがけ)武者のいでたちで馬を走らせ、その後ろから大人が羽織姿で子供を追う。このような競馬は他国にはなく、酒々井町には牧士がいたことから子供でも上手に馬に乗る。佐倉藩家中からも多くの者が見物にいっていた。

馬鹿乗り(ばかのり)

八幡例祭には酒々井町仲宿で競馬が行われる。名主である仲宿の大谷忠左衛門宅(現在の商工会館)の前に座敷を作って佐倉藩の役人らが見物する。

馬鹿乗りはその余興で遠近の各村々地域の者が徒歩や馬上にて、各々仮装して練り歩き役人らにお見せする。

その有様はいかにもおどけており、馬鹿乗りの名にふさわしいものであった。これを見ようと付近の老若男女が大勢集まり、仲宿一帯の混雑は表現できないほどであったという。

出典 : 『古今佐倉真砂子』 『印旛郡誌』 『酒々井町の年中行事』 『佐倉藩年寄部屋日記』

本佐倉城鎮守と城下の祭礼

大佐倉の八幡宮の神輿と競馬・馬鹿乗りは明治中期から次第に行われず昭和の初めには神輿の渡御[とぎょ]も行われなくなりましたが、盛大な祭礼であり様々な記録に書かれています。

記録によれば大佐倉の八幡宮は本佐倉城と城の周辺の鎮守・守護神でその祭礼は戦国時代に本佐倉城下に町が成立した八月十二日であるとしています。

『印旛郡誌』に千葉氏滅亡後に家康が「酒々井・本佐倉・大佐倉・墨・尾上・下台・上岩橋・柏木・八木野(伊篠)の総鎮守となし酒々井町へ神輿の臨幸[りんこう]を命じ旦つ日本三競馬の一と称されし競馬を許して酒々井仲宿なる八幡宮お仮屋前より行ひし」と書かれており、上岩橋の八幡神社の祭礼幟には「鎮守御祭礼八月十二日」「奉納八幡大菩薩」と書かれています。

かつて、大佐倉の八幡宮の祭礼は戦国時代の千葉氏・本佐倉城下の共通の祭礼で神輿渡御と競馬・馬鹿乗りなど他では見られないお祭りが繰り広げられたのでしょう。

  • 「牧士絵図」画像
     
  • 「大佐倉八幡神社」画像
    大佐倉八幡神社

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