酒々井町の八抱[やかか]えの松[まつ]の跡がこれです。松は天保年中に落雷に遭い、明治二年に大風が襲ったため枯れてしまいました。今はただ腐り朽ちかけた根が残っているだけです。松の隣の妙見社[みょうけんしゃ]の前に碑があり古松の事などを書いてるので歴史がわかります。(略)
『印旛郡誌』 大正二(1913)年現代語訳
酒々井駅古松碑[こしょうひ]と酒々井の記憶
妙見社の前に碑とは酒々井駅古松碑[しすいえきこしょうひ]のことです。
碑は「八抱えの松(やかかえのまつ)」の枯れた翌年の明治三年十月、これを惜しんだ人達の発起で建立[こんりゅう]された高さ二・一八メートル、巾〇・九〇メートルの石碑で文章は佐倉藩の大参事(家老職)平野重久が考え、藩校書学教師の平林辰協が文字を書きました。
碑文は漢文で古松の事、酒の井の由来、千葉氏本佐倉城時代の酒々井繁栄の様子をしのんだ文章が刻まれています。
碑文の内容は「印旛沼を望む、この地には神宮寺があり、酒々井地名の由来となった酒泉・古井戸をたたえた古碑があること」また「八抱えの松と呼ばれた樹齢七、八〇〇年の古松があり、古松は千葉氏の城下町のなごりであったが、天保年中に落雷にあって衰え、明治二年に大風で枯れてしまったこと」、「時を経れば世の中は変わってしまうが古松と酒泉のことは末永く伝えたい」とあります。
『成田名所図会』 八抱えの松