酒々井の下宿に喜兵衛どんというかなり裕福な暮らしをしていた旦那様がいた。
これが大の牡丹餅好きで、年がら年中牡丹餅をこしらえて切らしたことがない。
何としても牡丹餅が大好きなので、よその人が食べてくれるとえびす顔で喜んでいる。それも“ただ”なのだから世話がない。
大人が来ると「どうですか」と、子どもが来ると「どうだい一つ」できりがない。当時、酒々井の宿場は盛んだったから有名になる。旅の人が来ても「どうです一つ」である。鼻ったらし小僧[こぞう]は今とちがって買い食いも思うに任せないので「おじさん牡丹餅くんねげ」とぞろぞろやって来る。
こんな具合だから年がら年中炊いては作る、作ってはただで食わせる。まあ、三十石といえば七十五俵[ひょう]、三千升[しょう]にもなりますか。それだけでなく小豆[あずき]も必要、甘味も必要だからたまったもんじゃない。
喜兵衛どんもとうとう身上をつぶしてしまって居なくなってしまった。
この話は故川島計介さんが伯父さんから聞いた話を昭和54年の酒々井町郷土研究会会報に掲載したお話です。川島家ゆかりの家の話で「先祖の恥さらしとなりましょうが、とにかく話しましょう」と紹介しています。
かつて牡丹餅は誕生儀式や彼岸[ひがん]、葬礼儀式で作るもので一年に数回しか食べられませんでした。「棚から牡丹餅」の喜兵衛どんは奇特な人物で有難い人物といえます。
財産を使い果たして消えていく人たちがいるのが「町」らしいところです。
同一人物かは不明ですが、酒々井区に残る江戸時代中期の記録に下宿に喜兵衛という人が住んでいましたが一代でいなくなったとあります。