御制札場[ごせいさつば](高札場) 一ヶ所 一里塚 一ヶ所「享保八(1723)年 酒々井村町明細書」 『酒々井町史史料集一』
江戸時代の酒々井町は佐倉城の城下町として商人・職人が住んでいる町人の町でありましたが、江戸と小見川・多古を結ぶ街道沿いの宿場町でもありました。宿場町とは文書・荷物の中継場所と人が宿泊・休憩する宿屋・茶屋が集まっているところで幕府や藩が許可した場所をいいます。
街道には出発場所からの距離を記した標識・一里塚が置かれ榎[えのき]が植えられました。
また宿場には掟書[おきてがき]、法度[はっと]、犯罪人の罪状などを一般庶民に知らせるために設けられた高札[こうさつ](公設掲示板)が置かれていました。
これらは江戸時代の絵図にも描かれています。これによれば制札場[せいさつば](高札場)は酒々井宿の中央の交差点、一里塚は酒々井宿の入口にあったとされます。
また江戸時代中期頃の『古今佐倉真佐子[ここんさくらまさご]』には酒々井宿一里塚の様子が「塚には芝が植えてあり、榎[えのき]の木が植わっている、佐倉新町の高札場から一里(約4キロメートル)にある。」と書かれています。
制札場は明治六年に取り払われ、一里塚も削られ残っていません。
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高札場 酒々井町村麁絵図
部分
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一里塚
昭和44年頃