公開日 2018年03月23日
関東の名族千葉氏の最後の居城、本佐倉城
千葉氏は、鎌倉、室町幕府のもとで下総を中心に一大勢力を張り下総守護職として代々「千葉介」と呼ばれ、関東有力大名のなかで筆頭の地位にあった一族です。
本佐倉城築城
享徳三(1454)年に始まる古河公方と関東管領上杉氏が対立した享徳の大乱は関東全域に広がりました。下総の千葉氏もこの戦乱の中で内紛が起こり本宗家が滅亡し一族の岩橋輔胤が継承しました。この輔胤、その子孝胤の時期(文明年間(1469~1487))に千葉氏の本拠を鎌倉時代以来の千葉から佐倉(現在の酒々井町周辺)へ移し新たに築城したのが本佐倉城です。
【写真】本佐倉城跡航空撮影(南から)
城の北の現在水田になっている低地が香取の海であった。京成線軌道周囲が当時の汀線でそこから城の周囲はすべて湿地帯であり天然の防御壁が備わっていた。
下総の首府となる
築城後、市立て町立てが行われ、本佐倉城の周辺には寺院が次々と創建されました。城の鎮守である八幡神社のご神体を整え神社の修復も行いました。3代当主勝胤の時には自身の名をつけた常奯山勝胤寺(佐倉市大佐倉)、常勝山妙胤寺(本佐倉)等の菩提寺、祈願寺が建立され城下の整備が整っていきました。
さらに千葉氏一族、家臣等で構成される「佐倉歌壇」による歌合や、歌人衲叟馴窓による『雲玉和歌集』の編纂等文芸活動も盛んとなり、本佐倉城とその城下は下総の政治、経済、文化の中心となりました。
後北条氏の影響
16世紀中頃以降関東に後北条氏の勢力が拡大していく中、千葉氏は5代当主利胤の早世、6代当主親胤の暗殺等の事変も重なり徐々にその影響を受けるようになっていきました。7代当主胤富の時には、本佐倉城からたった7kmの距離の臼井城(佐倉市)まで上杉謙信に攻め込まれる大きな危機に見舞われました。胤富は千葉氏の所領を守るため後北条氏と連携を取るようになり、その一方で千葉氏内部への介入を受けるようになっていきました。
千葉氏と本佐倉城の終焉
8代当主邦胤は北条氏政の娘を妻に迎えました。後北条氏の本城小田原城のかわらけの特徴をもつものが本佐倉城から出土することや朱印の使用は後北条氏の影響を強く受けたこの時代を反映したものでしょう。
邦胤の暗殺後は北条氏政の子の直重が千葉氏当主を継承しました。しかしその直後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐において千葉氏は後北条氏に味方し敗れ滅亡し、これにより本佐倉城も廃城となりました。
近世佐倉へのあけぼの
千葉氏滅亡後、佐倉支配の新たな拠点となったのは大堀陣屋(上本佐倉)でした。
関東の新たな支配者となった徳川家康は自身の息子2人を含む家臣達を送り込み佐倉の地を治めさせ、約20年後、元和2年(1616)頃に佐倉城(佐倉市)が完成しすべての機能が移転されるまで佐倉支配の中心となりました。