秋が深くなると日脚[ひあし]が早い。宿場町のへんに草の実がはぜる頃になると、外宿、仲宿、上宿の子らに一つの楽しみがわいてくる。
「そろそろ上総みかんが来る頃だよな」
東金・成東は古来から上総かんきつ類(温州、ふくれ、しらわ)の産地である。
馬の背に一駄(二俵)、一駄半(三俵)と馬子[まご]に牽[ひ]かれてやってくる。
お小遣いもおやつもろくにもらえない悪童[あくどう]らの格好の食べ物である。
昔の城下町の道路は防戦上、直線・直角にできている。
「そら、馬がきた、隠れろ」
誰いうとなしに東の角から見えはじめた荷駄の馬子に見つからないように皆が溝の両側に散って息をころす。道路を横切って荒縄[あらなわ]がビックと動く。ウンチがびっしょり塗ってある縄である。
十頭余りの荷駄みかんが近づくと、両側の溝から荒縄をピンと引っ張って「ワー」と飛び出す。
「一つくんねど通せんぼっこ」
「一つくんねど通せんぼっこ」口々に言いながらウンチの荒縄を上下して道をふさぐ。
「ワツラ(お前ら)、しょうねえ餓鬼[がき]らだや」と言いながら、俵からみかんを取り出し、投げていく。どの馬子[まご]のひげ面も笑っていたという。
拾う、投げるのほんのひととき過ぎると子らは「ヤツラ(野郎ら)、もういいにしべいやよ」と声をかけ合って近くの家のうらでクシャ、クシャ、「うめえなあ」、「うん、うめえなあ」
明治三十年に鉄道が開通するまで、当地の浜宿[はまじゅく]河岸に荷駄が通っていたころの、たあいのない話である。
みかんの道 宿場の記憶
この話は上本佐倉にお住まいだった故川島計介さんが昭和五十五年の酒々井町郷土研究会会報に掲載したお話です。
このお話は酒々井町ではなく隣の本佐倉町ですが、二つの町は戦国以来の城下町で一体の関係にありましたので掲載しました。
戦国時代の頃から酒々井宿は「みかん」が通って行く場所でした。
千葉氏の後、文禄四(1595)年、慶長七(1602)年の古文書には香取東庄[かとりとうのしょう]から江戸の将軍に献上する「柑子(こうじ)・みかん」を運ぶため「さくら(酒々井・本佐倉)」を始めとした宿駅に人馬を提供するようとあります。
お話の中では東金・成東のみかんを大佐倉の浜宿湊に運ぶ十頭の馬がみかんを積んでいたとあります。献上みかんと異なり、大量のみかんを運ぶには船を使ったのでしょう。江戸時代に上総東金を領地としていた福島藩板倉家は毎年「東金蜜柑柑子[みかんこうじ]」を将軍に献上していました。
宿場の子どもたちは「関所」を作り、馬子は当然のようにみかんを投げ、子どもたちはおこぼれを貰えれば去っていく、馬子たちは笑いながら子どもたちに応じています。
運送の商売では荷物がなくなった場合、弁償の責任があります。大切な荷物を子どもたちに投げよこしたのは、商売の古い習慣だったのでしょう。
戦国時代まで領主は関所を作り、通過する荷物に税金をかけていました。その荷物が初物の時は初穂として領主や神社に一部が納められました。昔からの習わしで、子どもたちにも馬子からの初穂として振舞われたのでしょう。