天正十八(1590)年の秋、徳川家康様が関東に来て直[す]ぐが佐倉(酒々井町)の始まりです。家康様は代官の大久保十兵衛殿を頭[かしら]に領地の調査を命令します。
翌天正十九年には新しい酒々井町を造るよう大久保らに命令します。
その際、家康様と秀忠様は関東での初めての町づくりであり、長年に栄えるよう心掛けるようにと大久保殿に言いつけました。
このことは酒々井町の篠田大隅[しのだおおすみ]など町役人に文書で渡されました。その内容は千葉氏の時から本佐倉で開かれている市場の開催、八月十二日の祭礼の競馬[けいば]開催、馬による運送の権利、さらに今まで浜宿のみにあった湊[みなと]を、酒々井にも新しく船着き場を作るようにとありました。
これらはすべて酒々井町が繁栄するようにとの家康様と秀忠様のお考えによるものです。
三年間は大久保殿や代官が酒々井町を治めていましたが、文禄二(1593)年に家康様は五男で武田家の名前を継いだ武田信吉[たけだのぶよし]様を本佐倉に陣屋を構えさせ佐倉藩主にしました。
「天和[てんな]の書き上げ」
町の由緒を記した古文書
「天和の書上げ」は酒々井町の由来と本佐倉城千葉氏から代々の佐倉藩主を書き上げた文書です。
千葉氏時代からの由緒と酒々井町が徳川家康の命令によって建設されたことを強調している内容で酒々井町史などでは佐倉城の築城後、新たに城下町として建設された佐倉新町や近隣に由緒を強調し優位性を保とうとした文書であるとしています。
しかし文書の中には注目する内容と語句があります。
篠田大隅は天正十九年、新しい町の建設に伴い隣の本町から引っ越してきた千葉氏の御用商人篠田大隅守[おおすみのかみ]といい酒々井町で町役人の筆頭を務めた有力者であり、その屋敷は酒々井町役場入口の交差点北側にあり四百坪の敷地を持っていました。
また千葉氏の時代には本佐倉町に市場が開催され馬による運送場所・問屋場があり、本佐倉町が商業の中心であったことが分かります。
「八月十二日の祭礼の競馬開催」とは本佐倉城の鎮守である大佐倉八幡神社の時に行われた競馬[くらべうま]のことで、古文書[こもんじょ]には「八月十二日、御町[おんまち]の立[たて]はしめ」佐倉の町が誕生した日と記録がされていることから、千葉氏時代の城下町の記念日とその祭礼が新しい酒々井町に引き継がれたことが書かれています。
千葉氏が滅亡し多くの武士たちが本佐倉や酒々井の城下町から引っ越していき空き家が目立つ町となりましたが、下総の中心都市がなくなることは家康にとって大変な不利益であり、新しい町造りを命じたのでしょう。
新しい酒々井町は三年後、家康の五男武田信吉[のぶよし]を初代佐倉藩主として迎えます。
下総之国図(江戸初期)
部分
船橋市西図書館所蔵資料を使用。
戦国時代の地名が載っている地図で本佐倉城が「佐倉ノ城」、
酒々井が「すすい」と書かれ、佐倉城は「鹿島ノ城」とあります。